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そして奥様は家を出る

last update publish date: 2026-06-28 01:51:58

パーティーの開催は一週間後。

どうしても警備計画を対面で詰める必要があった。

みやびは変装してカフェに向かう。

みやびの変装は完璧だ。

化粧で顔相を変え、さらに大きなメガネをかけて素顔の印象をぼやかす。

背丈はフラットなシューズを履いたうえに常時膝を軽く曲げることによって5センチほど低く見せている。

これに制服を着れば、奥手で地味な女子高生にしか見えない。

待ち合わせをしていた慎也でさえ、その変装のあまりの完璧さに惑わされた。

「え、だれ?」

「しっ、私よ」

「ああ、先輩……だから俺、この格好を指定されたんですね」

慎也は銀縁の眼鏡をかけて、ちょっとチャラい大学生風。

側から見ればチャラい家庭教師とウブな教え子がカフェでお勉強デートしているようにしか見えない。

「じゃあ、早速始めましょうか」

慎也はノートを広げる風を装って、今回のパーティー会場となる遠ヶ谷ホテルの見取り図を広げた。

そのころ祐市は、笠間が運転するマイバッハの後部座席にて、イライラと爪を噛んでいた。

「社長、ご機嫌斜めですか」

ご機嫌斜めどころか垂直だ。

ここ数日、みやびは「仕事が終わらないから」と言って帰ってこない。

代わりに史緒里が出迎えてくれるが、エプロンをつけているくせに飯を作ってはくれない。

勢い外食に出る羽目になるのだが、史緒里は高級で脂っこいものばかり食べたがる。

祐市は、毎食バランスよく整えられたみやびの料理を懐かしく感じていた。

だけどそれはみやびに未練があるみたいで不快だった。

だから自分の気持ちに蓋をした。

「疲れているんだ、離婚の話がなかなか進まなくてな」

「奥様は、あの条件では不服だと?」

「いや、話し合いすらできていない。仕事が忙しいらしくて、帰ってこないんだ」

「奥様って、事務方のお仕事をなさっているんですよね、なのに泊まりがけでするようなお仕事があるんでしょうか」

「さあ、帳簿の総ざらえとか監査対策とか? まあ、何かそういうものだろうよ」

言った端から違和感を覚える祐市。

「ん? あんな大きな会社の、末端部署の、末端社員に、そんなに仕事があるものか?」

笠間は祐市を宥めようとヘラヘラ笑う。

「まあまあ、末端社員だからこそ仕事を押し付けられるってこともあるんじゃないですかね」

ちょうど通り道に、カフェの看板が見えた。

「社長、コーヒーでも飲みませんか、イライラしてる時こそリラックスですよ、リラックス」

二人はパーキングに車を止めて、カフェに入った。

店に入ってすぐに、祐市は一冊のノートを仲良く覗き込んでイチャイチャお勉強デートしているカップルに気づく。

「ん?」

おさげ髪に地味眼鏡の女子高生をじっと見る。

「んん?」

一度目を放して、もう一度見る。

「笠間」

「なんですか、社長」

「あれ、みやびだ」

「え、どれですか」

笠間は振り向いたが、そこにはチャラそうな大学生彼氏に寄り添うウブそうな地味女子高生がいるだけだった。

だから笠間は、祐市が冗談を言っているのだと思った。

「いやいや、社長〜、流石にJKに手を出すのは犯罪ですって〜」

「いや、高校生みたいな格好をしているけど、あれはみやびだ。俺にはわかる」

「どこがですか」

「腰を見ろ、腰を。きゅうっと引き締まって、そこから豊かな尻に向かって美しい流線型を描きながら広がる、あの完璧な腰の形は間違いなくみやびだろう」

「え、キモっ」

思わず声に出した笠間は悪くない。

腰の形で個人が識別できるなんて、十人中十人が「キモっ」と思うような特技である。

だが己の腰を見る目に相当自信があるのか、祐市はその少女にツカツカと歩み寄って迷うことなく声をかけた。

「みやび」

みやびは驚いて祐市を見上げた。

彼女の変装は常に完璧で、誰かに看破されたことは一度もない。

だから身バレした時にどんな反応を返せばいいのか、正解がわからなかった。

「ひっ、人違いじゃございませんこと、私、日立みやびではなくってよ」

「人違いなのに、なぜフルネームがスラリと出てくるんだ?」

「ぐっ、うっ、それは……」

「そもそも君は仕事に行っているはずじゃないのか? こんなところで……コスプレデート?」

「コスプレじゃないです、変装です、それに彼は同僚です!」

「何が同僚だ、こんな若い男……」

祐市はみやびの隣に座る男にちらりと目をむける。

格好だけ見ればろくに社会も知らず女のことしか考えていないチャラい大学生に見えるのだから、慎也の変装もなかなかのものである。

祐市の中でイライラした気分がさらに膨れ上がる。

「こんな若い男と! 日立みやび、よくやるな!」

これを聞いたみやびは大喜びである。

ピョーンとほぼ垂直に椅子から飛び上がり、くるりと空中で身を捻って、すちゃっと着地を決めた。

「キタキターっ! ”よくやるな”いただきましたー!」

そのまま興奮した子犬のようにぐるぐると走り回る。

「ああっ、”元妻を見下したような冷たい目”! わかります、わかりますよぉ、自分は女とイチャイチャしているくせに、バカにしている妻に男がいるのは許せない、これ王道ですね!」

見た目はしっかり女子高生なのに、その言動はまさしくみやび。

「嫉妬ですか、執着ですか? 軟禁とかしちゃいますか?」

「落ち着け」

「そういえば、史緒里さんはいないんですか? こういう場面では”まさかあの女を愛しているというの、ギリィ”ってしてもらわないとしまらないじゃないですか!」

「ほんと落ち着け」

これでは埒があかないと思った慎也は、変装用のメガネを外して立ち上がった。

「初めまして、日立さん、みやびさんの同僚の竜ヶ崎です。本日は業務の一環としてこちらで……」

祐市は信じない。

「わざわざ変装までして? ただの事務員にどんな極秘任務があるっていうんだ」

祐市はみやびに詰め寄る。

「さあ、どんな極秘任務があるっていうんだよ! どうせ嘘だろ、わざわざ返送までしてやることといえば、秘密の逢引きしかないじゃないか!」

みやびはしどろもどろ。

「えーと、必ずしもそうとは限らないのではないかとか、そういう感じのあれでして……」

みやびは超優秀な女だ。

どんなに複雑な任務も、どれほど困難な状況での敬語でも、全て”計画通り”に処理してきた。

だからみやびは知らなかったのだ。

自分が不測の事態に弱いなんて!

「あれ、あれです、これ、これ、社内の人にも内緒で処理しなきゃならない……裏……裏帳簿なんです!」

実際に目の前にあるのはパーティー当日の警備配置や有事の際の退路をどう確保するのかが細かく書かれた警備計画書なのだが、これを祐市に知られるわけにはいかない。

なぜなら祐市は母の美鶴とツーカーであり、警備上最大の穴である彼女に警備計画を漏洩しかねない。

みやびはテーブルの上の書類をかき集めながらオロオロと目線を泳がせていた。

「あの、裏帳簿と言っても不正しようとかって裏帳簿じゃなくて……」

「不正じゃない裏帳簿なんかあるのか?」

「あるんです!」

このやりとりに、慎也が「あっちゃー」と頭を抱える。

クールで理知的なみやびが、こんなに不測の事態に弱かったなんて……

「えー、日立社長、私の方からご説明させてください、大企業であればこそ、どうしても大なり小なりの使途不明金が発生しますよね、ご自分も経営者だからこそ、この点はご理解いただけるかと思います」

「うん、まあ、そうだな」

「その使途不明金を追跡するべく細かい帳簿のチェックをしているのですが、これ、社内で大っぴらにやると社員の反感を買いますよね、誰だって申告漏れやミスはあって当然、それをまるで不正であるかのように探られたら、いい気持ちはしないでしょう?」

「なるほど、だからこんなところで帳簿のチェックを」

「おわかりいただけましたか?」

この男、流れるように嘘を言う。

そして、その嘘を見抜けないのが祐市という男。

「なるほど、それは確かに極秘任務だ。だがな、家庭のある主婦が何日も家を空けるもんじゃない、そろそろ家に帰って飯を作れ」

「妻を飯炊き女扱い、王道です!」

グッと親指を立てるみやび。

「お前は、また訳のわからないことを……いいか、今夜は絶対に帰って飯を作ってくれよ、外食ばかりじゃ体が持たない」

祐市たちが立ち去った後で、慎也は恍惚とした表情で立つみやびに聞いた。

「本当に帰るんですか? わざわざあいつの飯を作りに?」

「帰りますよ、愛人と本妻が揃う食卓は、泥沼バトルの宝庫なんですっ!」

「泥沼……? よくわかんないけど、愛人の分の飯も先輩が作らされるってことでしょ、そんな扱い受けるってわかってるのに、わざわざ帰るのって馬鹿馬鹿しくないすか?」

「何を言ってるの! 恋愛小説でよく見るアレとか、あれとか、まだやってないんだから、帰るわ!」

その日、みやびは計画の詰めが終わるとすぐに、”恋愛小説的展開”を求めて家へと帰った。

玄関を開けて出迎えてくれたのは、裸にエプロンをつけた史緒里だった。

「おかえりなさーい……って、なんだ、あんたなの」

「ウホッ、恋愛小説よりも刺激的! 私がいない間、ずっとその格好でお迎えを?」

「そうよ、祐市ったら大喜びで、そのまま盛り上がっちゃって、もう大変なんだから」

そんな事実はない。

裸エプロンに挑戦したのは今日が初めてだ。

史緒里はみやびを牽制したくてたまらないだけなのだ。

「それより、よくも恥ずかしくなく帰って来れたものね、この家にはもう、あなたの居場所はないというのに」

「ああっ、これこれ、これがやりたかったのよ、えーゴホン、『荷物をとりにきただけです』」

みやびはスーツケースを取り出すと、家を出る時の荷物をまとめるためにツーステップを踏みながら、自室である物置部屋に向かった。

だが、その部屋には持ち出すべき荷物など一つもなかった。

そもそもがみやびは超ミニマリストである。

特殊な任務で拠点を捨てることもあるため、残した物に執着しないよう訓練もされている。

身分証などもいくらでも支給されるから持ち歩く必要がない。

タンスを開けたみやびは、そこに並ぶ衣服を見てうなづいた。

「うん、いらないな」

引き出しを開けるが、何か愛着するような品があるでなし。

祐市はみやびに何かを買ってくれたことがなく、結婚指輪すら渡されていないため、思い出の品というものもない。

この部屋には持ち出すべきものはない、とみやびは判断した。

「仕方ない、ご飯でも作ろうかな」

みやびはキッチンに入る。

きちんと洋服を着た史緒里が入ってきて、エプロンを渡そうとした。

みやびはもちろん、これを断る。

「裸につけたエプロンはちょっと……」

「なによ、私の裸が汚いみたいに!」

「そういうことじゃないのよ、史緒里さん」

結局みやびはエプロンをつけずに3品を作った。

恋愛小説の定番、豚の角煮に、茹でたエビに、それから熱々のお粥である。

やがて帰ってきた祐市は、久しぶりに嗅ぐ美味しそうな湯気の匂いに上機嫌だった。

「よしよし、妻の勤めというものが、ちゃんとわかってきたじゃないか」

史緒里はエプロンをつけて、料理を運ぶのを手伝おうとする。

いかにも良妻の顔だ。

「おかゆ熱くて危ないから、私が持ってゆくわね」

「あ、じゃあ一度置くので……」

「このままで大丈夫よ」

史緒里がおかゆの入った土鍋をみやびの手から奪い取る。

煮えたぎったお粥が数滴跳ねて、史緒里の指にかかった。

「きゃあ、熱い!」

史緒里はびっくりしたふりをして土鍋を投げ出し、その中身をみやびに引っかけようとする。

だがみやびは、どんな危険にも反射的に反応するように鍛えられた武人だ。

まだ空中にある土鍋をつかみ、こぼれ出した粥の動きに合わせて大きく振る。

粥は一滴としてこぼれることなく、全て土鍋の中に収まった。

そこへ史緒里の悲鳴を聞いた祐市が駆け込んでくる。

彼が見たものは、かゆを満たした土鍋を平然と持つみやびと、その前にうずくまって手を押さえる史緒里の姿だった。

「お前がやったのか、日立みやび!」

祐市の怒鳴り声に勢いを借りて、史緒里がわあっと泣き出す。

「ひどい、ひどいわ、みやびちゃん! いくら私が嫌いだからって、お粥をかけるなんて!」

「なんだと、見せてみろ、あー、火傷してるじゃないか」

「ああっ、痛い! もうこの指は治らないのかしら!」

指先がちょっと赤くなっただけで、水脹れさえできていないのに。

そのあまりの大げさっぷりに、恋愛小説大好きなみやびもちょっと引いた。

引いたが、お決まりのあの言葉を言わずにはいられない。

「違う、違うわ、私は何もしていない、史緒里さんが勝手に……」

「お前は、人を傷つけておいて、謝罪よりも先に言い訳するのか!」

これも恋愛小説でよく見る展開だ。

普段のみやびならば「いただきましたヨォ!」と盛り上がるところだ。

だがみやびは、じぶんが本気で傷ついていることに気づいた。

「本当に、何も……」

「ああっ、祐市っ許してあげて! みやびさんはきっとわざとじゃないの! ただ、私のことが嫌いなだけ!」

「嫌いだからって、傷つけていいという理屈はないだろう」

「祐市、信じて……くれないの?」

もしかしたら任務期間中に好きになってもらえるかも、という打算は確かにあった。

だがこの2年間、みやびが彼に差し出してきたものは真心だ。

妻として丁寧に食事を作り、家の中を整え、彼に対しては常に誠実であった。

最近では愛されてはいないけれど、妻として信頼されていると感じることもあったのに……初恋のただ一言でその信頼さえも打ち砕かれてしまうものなのか。

「史緒里を傷つけるような女は家にはおいて置けない、今すぐ出ていけ!」

「痛い、痛いよう、ゆーいちー」

「待ってろ、すぐに病院に連れて行ってやるからな」

史緒里を抱えて飛び出してゆく祐市を見送って、みやびはぽたりと一滴、涙を落とす。

「なるほど、これはきついわ」

今まで読んできた恋愛小説のヒロインたちに思いを馳せる。

愛されていないことに気づくよりも、信頼されていないことを思い知らされる方が、よっぽど痛い。

「そうね、出ていこう」

みやびは空っぽのスーツケースを引いて出ていき、そのまま、姿を消した。

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