LOGINパーティーの開催は一週間後。
どうしても警備計画を対面で詰める必要があった。
みやびは変装してカフェに向かう。
みやびの変装は完璧だ。
化粧で顔相を変え、さらに大きなメガネをかけて素顔の印象をぼやかす。
背丈はフラットなシューズを履いたうえに常時膝を軽く曲げることによって5センチほど低く見せている。
これに制服を着れば、奥手で地味な女子高生にしか見えない。
待ち合わせをしていた慎也でさえ、その変装のあまりの完璧さに惑わされた。
「え、だれ?」
「しっ、私よ」
「ああ、先輩……だから俺、この格好を指定されたんですね」
慎也は銀縁の眼鏡をかけて、ちょっとチャラい大学生風。
側から見ればチャラい家庭教師とウブな教え子がカフェでお勉強デートしているようにしか見えない。
「じゃあ、早速始めましょうか」
慎也はノートを広げる風を装って、今回のパーティー会場となる遠ヶ谷ホテルの見取り図を広げた。
そのころ祐市は、笠間が運転するマイバッハの後部座席にて、イライラと爪を噛んでいた。
「社長、ご機嫌斜めですか」
ご機嫌斜めどころか垂直だ。
ここ数日、みやびは「仕事が終わらないから」と言って帰ってこない。
代わりに史緒里が出迎えてくれるが、エプロンをつけているくせに飯を作ってはくれない。
勢い外食に出る羽目になるのだが、史緒里は高級で脂っこいものばかり食べたがる。
祐市は、毎食バランスよく整えられたみやびの料理を懐かしく感じていた。
だけどそれはみやびに未練があるみたいで不快だった。
だから自分の気持ちに蓋をした。
「疲れているんだ、離婚の話がなかなか進まなくてな」
「奥様は、あの条件では不服だと?」
「いや、話し合いすらできていない。仕事が忙しいらしくて、帰ってこないんだ」
「奥様って、事務方のお仕事をなさっているんですよね、なのに泊まりがけでするようなお仕事があるんでしょうか」
「さあ、帳簿の総ざらえとか監査対策とか? まあ、何かそういうものだろうよ」
言った端から違和感を覚える祐市。
「ん? あんな大きな会社の、末端部署の、末端社員に、そんなに仕事があるものか?」
笠間は祐市を宥めようとヘラヘラ笑う。
「まあまあ、末端社員だからこそ仕事を押し付けられるってこともあるんじゃないですかね」
ちょうど通り道に、カフェの看板が見えた。
「社長、コーヒーでも飲みませんか、イライラしてる時こそリラックスですよ、リラックス」
二人はパーキングに車を止めて、カフェに入った。
店に入ってすぐに、祐市は一冊のノートを仲良く覗き込んでイチャイチャお勉強デートしているカップルに気づく。
「ん?」
おさげ髪に地味眼鏡の女子高生をじっと見る。
「んん?」
一度目を放して、もう一度見る。
「笠間」
「なんですか、社長」
「あれ、みやびだ」
「え、どれですか」
笠間は振り向いたが、そこにはチャラそうな大学生彼氏に寄り添うウブそうな地味女子高生がいるだけだった。
だから笠間は、祐市が冗談を言っているのだと思った。
「いやいや、社長〜、流石にJKに手を出すのは犯罪ですって〜」
「いや、高校生みたいな格好をしているけど、あれはみやびだ。俺にはわかる」
「どこがですか」
「腰を見ろ、腰を。きゅうっと引き締まって、そこから豊かな尻に向かって美しい流線型を描きながら広がる、あの完璧な腰の形は間違いなくみやびだろう」
「え、キモっ」
思わず声に出した笠間は悪くない。
腰の形で個人が識別できるなんて、十人中十人が「キモっ」と思うような特技である。
だが己の腰を見る目に相当自信があるのか、祐市はその少女にツカツカと歩み寄って迷うことなく声をかけた。
「みやび」
みやびは驚いて祐市を見上げた。
彼女の変装は常に完璧で、誰かに看破されたことは一度もない。
だから身バレした時にどんな反応を返せばいいのか、正解がわからなかった。
「ひっ、人違いじゃございませんこと、私、日立みやびではなくってよ」
「人違いなのに、なぜフルネームがスラリと出てくるんだ?」
「ぐっ、うっ、それは……」
「そもそも君は仕事に行っているはずじゃないのか? こんなところで……コスプレデート?」
「コスプレじゃないです、変装です、それに彼は同僚です!」
「何が同僚だ、こんな若い男……」
祐市はみやびの隣に座る男にちらりと目をむける。
格好だけ見ればろくに社会も知らず女のことしか考えていないチャラい大学生に見えるのだから、慎也の変装もなかなかのものである。
祐市の中でイライラした気分がさらに膨れ上がる。
「こんな若い男と! 日立みやび、よくやるな!」
これを聞いたみやびは大喜びである。
ピョーンとほぼ垂直に椅子から飛び上がり、くるりと空中で身を捻って、すちゃっと着地を決めた。
「キタキターっ! ”よくやるな”いただきましたー!」
そのまま興奮した子犬のようにぐるぐると走り回る。
「ああっ、”元妻を見下したような冷たい目”! わかります、わかりますよぉ、自分は女とイチャイチャしているくせに、バカにしている妻に男がいるのは許せない、これ王道ですね!」
見た目はしっかり女子高生なのに、その言動はまさしくみやび。
「嫉妬ですか、執着ですか? 軟禁とかしちゃいますか?」
「落ち着け」
「そういえば、史緒里さんはいないんですか? こういう場面では”まさかあの女を愛しているというの、ギリィ”ってしてもらわないとしまらないじゃないですか!」
「ほんと落ち着け」
これでは埒があかないと思った慎也は、変装用のメガネを外して立ち上がった。
「初めまして、日立さん、みやびさんの同僚の竜ヶ崎です。本日は業務の一環としてこちらで……」
祐市は信じない。
「わざわざ変装までして? ただの事務員にどんな極秘任務があるっていうんだ」
祐市はみやびに詰め寄る。
「さあ、どんな極秘任務があるっていうんだよ! どうせ嘘だろ、わざわざ返送までしてやることといえば、秘密の逢引きしかないじゃないか!」
みやびはしどろもどろ。
「えーと、必ずしもそうとは限らないのではないかとか、そういう感じのあれでして……」
みやびは超優秀な女だ。
どんなに複雑な任務も、どれほど困難な状況での敬語でも、全て”計画通り”に処理してきた。
だからみやびは知らなかったのだ。
自分が不測の事態に弱いなんて!
「あれ、あれです、これ、これ、社内の人にも内緒で処理しなきゃならない……裏……裏帳簿なんです!」
実際に目の前にあるのはパーティー当日の警備配置や有事の際の退路をどう確保するのかが細かく書かれた警備計画書なのだが、これを祐市に知られるわけにはいかない。
なぜなら祐市は母の美鶴とツーカーであり、警備上最大の穴である彼女に警備計画を漏洩しかねない。
みやびはテーブルの上の書類をかき集めながらオロオロと目線を泳がせていた。
「あの、裏帳簿と言っても不正しようとかって裏帳簿じゃなくて……」
「不正じゃない裏帳簿なんかあるのか?」
「あるんです!」
このやりとりに、慎也が「あっちゃー」と頭を抱える。
クールで理知的なみやびが、こんなに不測の事態に弱かったなんて……
「えー、日立社長、私の方からご説明させてください、大企業であればこそ、どうしても大なり小なりの使途不明金が発生しますよね、ご自分も経営者だからこそ、この点はご理解いただけるかと思います」
「うん、まあ、そうだな」
「その使途不明金を追跡するべく細かい帳簿のチェックをしているのですが、これ、社内で大っぴらにやると社員の反感を買いますよね、誰だって申告漏れやミスはあって当然、それをまるで不正であるかのように探られたら、いい気持ちはしないでしょう?」
「なるほど、だからこんなところで帳簿のチェックを」
「おわかりいただけましたか?」
この男、流れるように嘘を言う。
そして、その嘘を見抜けないのが祐市という男。
「なるほど、それは確かに極秘任務だ。だがな、家庭のある主婦が何日も家を空けるもんじゃない、そろそろ家に帰って飯を作れ」
「妻を飯炊き女扱い、王道です!」
グッと親指を立てるみやび。
「お前は、また訳のわからないことを……いいか、今夜は絶対に帰って飯を作ってくれよ、外食ばかりじゃ体が持たない」
祐市たちが立ち去った後で、慎也は恍惚とした表情で立つみやびに聞いた。
「本当に帰るんですか? わざわざあいつの飯を作りに?」
「帰りますよ、愛人と本妻が揃う食卓は、泥沼バトルの宝庫なんですっ!」
「泥沼……? よくわかんないけど、愛人の分の飯も先輩が作らされるってことでしょ、そんな扱い受けるってわかってるのに、わざわざ帰るのって馬鹿馬鹿しくないすか?」
「何を言ってるの! 恋愛小説でよく見るアレとか、あれとか、まだやってないんだから、帰るわ!」
その日、みやびは計画の詰めが終わるとすぐに、”恋愛小説的展開”を求めて家へと帰った。
玄関を開けて出迎えてくれたのは、裸にエプロンをつけた史緒里だった。
「おかえりなさーい……って、なんだ、あんたなの」
「ウホッ、恋愛小説よりも刺激的! 私がいない間、ずっとその格好でお迎えを?」
「そうよ、祐市ったら大喜びで、そのまま盛り上がっちゃって、もう大変なんだから」
そんな事実はない。
裸エプロンに挑戦したのは今日が初めてだ。
史緒里はみやびを牽制したくてたまらないだけなのだ。
「それより、よくも恥ずかしくなく帰って来れたものね、この家にはもう、あなたの居場所はないというのに」
「ああっ、これこれ、これがやりたかったのよ、えーゴホン、『荷物をとりにきただけです』」
みやびはスーツケースを取り出すと、家を出る時の荷物をまとめるためにツーステップを踏みながら、自室である物置部屋に向かった。
だが、その部屋には持ち出すべき荷物など一つもなかった。
そもそもがみやびは超ミニマリストである。
特殊な任務で拠点を捨てることもあるため、残した物に執着しないよう訓練もされている。
身分証などもいくらでも支給されるから持ち歩く必要がない。
タンスを開けたみやびは、そこに並ぶ衣服を見てうなづいた。
「うん、いらないな」
引き出しを開けるが、何か愛着するような品があるでなし。
祐市はみやびに何かを買ってくれたことがなく、結婚指輪すら渡されていないため、思い出の品というものもない。
この部屋には持ち出すべきものはない、とみやびは判断した。
「仕方ない、ご飯でも作ろうかな」
みやびはキッチンに入る。
きちんと洋服を着た史緒里が入ってきて、エプロンを渡そうとした。
みやびはもちろん、これを断る。
「裸につけたエプロンはちょっと……」
「なによ、私の裸が汚いみたいに!」
「そういうことじゃないのよ、史緒里さん」
結局みやびはエプロンをつけずに3品を作った。
恋愛小説の定番、豚の角煮に、茹でたエビに、それから熱々のお粥である。
やがて帰ってきた祐市は、久しぶりに嗅ぐ美味しそうな湯気の匂いに上機嫌だった。
「よしよし、妻の勤めというものが、ちゃんとわかってきたじゃないか」
史緒里はエプロンをつけて、料理を運ぶのを手伝おうとする。
いかにも良妻の顔だ。
「おかゆ熱くて危ないから、私が持ってゆくわね」
「あ、じゃあ一度置くので……」
「このままで大丈夫よ」
史緒里がおかゆの入った土鍋をみやびの手から奪い取る。
煮えたぎったお粥が数滴跳ねて、史緒里の指にかかった。
「きゃあ、熱い!」
史緒里はびっくりしたふりをして土鍋を投げ出し、その中身をみやびに引っかけようとする。
だがみやびは、どんな危険にも反射的に反応するように鍛えられた武人だ。
まだ空中にある土鍋をつかみ、こぼれ出した粥の動きに合わせて大きく振る。
粥は一滴としてこぼれることなく、全て土鍋の中に収まった。
そこへ史緒里の悲鳴を聞いた祐市が駆け込んでくる。
彼が見たものは、かゆを満たした土鍋を平然と持つみやびと、その前にうずくまって手を押さえる史緒里の姿だった。
「お前がやったのか、日立みやび!」
祐市の怒鳴り声に勢いを借りて、史緒里がわあっと泣き出す。
「ひどい、ひどいわ、みやびちゃん! いくら私が嫌いだからって、お粥をかけるなんて!」
「なんだと、見せてみろ、あー、火傷してるじゃないか」
「ああっ、痛い! もうこの指は治らないのかしら!」
指先がちょっと赤くなっただけで、水脹れさえできていないのに。
そのあまりの大げさっぷりに、恋愛小説大好きなみやびもちょっと引いた。
引いたが、お決まりのあの言葉を言わずにはいられない。
「違う、違うわ、私は何もしていない、史緒里さんが勝手に……」
「お前は、人を傷つけておいて、謝罪よりも先に言い訳するのか!」
これも恋愛小説でよく見る展開だ。
普段のみやびならば「いただきましたヨォ!」と盛り上がるところだ。
だがみやびは、じぶんが本気で傷ついていることに気づいた。
「本当に、何も……」
「ああっ、祐市っ許してあげて! みやびさんはきっとわざとじゃないの! ただ、私のことが嫌いなだけ!」
「嫌いだからって、傷つけていいという理屈はないだろう」
「祐市、信じて……くれないの?」
もしかしたら任務期間中に好きになってもらえるかも、という打算は確かにあった。
だがこの2年間、みやびが彼に差し出してきたものは真心だ。
妻として丁寧に食事を作り、家の中を整え、彼に対しては常に誠実であった。
最近では愛されてはいないけれど、妻として信頼されていると感じることもあったのに……初恋のただ一言でその信頼さえも打ち砕かれてしまうものなのか。
「史緒里を傷つけるような女は家にはおいて置けない、今すぐ出ていけ!」
「痛い、痛いよう、ゆーいちー」
「待ってろ、すぐに病院に連れて行ってやるからな」
史緒里を抱えて飛び出してゆく祐市を見送って、みやびはぽたりと一滴、涙を落とす。
「なるほど、これはきついわ」
今まで読んできた恋愛小説のヒロインたちに思いを馳せる。
愛されていないことに気づくよりも、信頼されていないことを思い知らされる方が、よっぽど痛い。
「そうね、出ていこう」
みやびは空っぽのスーツケースを引いて出ていき、そのまま、姿を消した。
二人が最初に向かったのは、もちろん半蔵門。早速あやめが講義を始める。「ここが半蔵門、半蔵率いる伊賀同心組の屋敷がこの近くにあり、彼らが警備を担当したというのがその名の由来だと言われています」「ハンゾー、シッテル! ハットリハンゾー! ブンシンノジュツ!」「実際の忍者は分身しません」「じゃあ、ヘンゲ!」「私自身もオタクなので創作物の中の忍者を否定するつもりはありませんが、実際の忍者と創作の忍者は別物です。物理法則や常識を凌駕するような術は、創作物の中だけの話です」「ホンモノニンジャ、ヨワイ?」「弱くはありませんね、彼らがこの門の警護を任され、家康公からの信頼を得ていたのは、有事の際に彼の身を守ることができるプロ集団だったからです」「ケービイン! タタカったことあります、シオリ、ツヨい」「そのシオリさんという方のことは存じ上げないのですが、まあ、そうですね、情報戦に強いエリート警備員だと思えばいいです、普段は城下で情報収集や、諜報を行い、陰ながら江戸の平和を守っていたわけですよ」「おう、キリコさん!」「その方のことも存じ上げないのですが、まあ、なんとなく把握しました。ネットで言ってましたものね、“ニンジャを見た”って」「スィ、ニンジャはいまもイル」「その話は後ほど、その前に、この半蔵門の説明をしますね。ここは江戸城の裏門、正確には“搦手門”というのですが、有事の際には城内からこの門を使って脱出して、こっち、見えます、ここ?」あやめが指さしたのは甲州街道。今ではなんの変哲もない道である。「この甲州街道を通って甲府城まで家康公を無事に送り届ける、そのために伊賀衆がここに配置されていたと言われています。簡単にいうと江戸城のバックドアの門番ですね」「セキュリティ、シオリさんとオナジ」「そうなんですね。さて、それはさておき、今日はこの甲州街道を辿って、半蔵ゆかりの地を巡りますよ」甲州街道を並んで歩きながら、あやめは解説を続ける。「創作物では“服部半蔵”が本名であるかのように語られていますが、今話しているのは服部半蔵正就、つまり“3代目服部半蔵”のことなんですよ」「サンダイメ? ハンゾー、いっぱいいた?」「いっぱいはいませんけど、正就はお父さんから“服部半蔵”の名前をついだんですよね、つまり個人名じゃなくて役職名みたいな感覚でしょうか
これは、マフィアでありながら日本のサブカルチャーをこよなく愛する男、ジョバンニの物語である。ある土曜日の朝早く、ジョバンニはシャドーストライプの入ったダークカラーなスーツをピシッと着込んで、ボルサリーノを粋にキメ、イカす靴を履いて、すっかり正統派マフィアスタイルで出かけようとしていた。仲間たちがこれを見て囃し立てる。『なんだ、ジョバンニ、デートか?』ジョバンニは至極真面目な顔でこれに答えた。『いや、フィールドワークだ』『なんの』『もちろん、ニンジャの』『お前は……時々意味不明だな』ジョバンニのルームメイトであるルカが補足に入る。『あー、ジョバンニのやつ、今はニンジャにハマっててさ、毎晩ネットで、歴史に詳しい人とやりとりしてるんだよ』ジョバンニが誇らしげに頷く。『スィ、"オシショーサン"。フィクションの忍者にも、歴史の忍者にも詳しいセンセイ』なるほど、つまり、オフ会である。『どんな人だよ、オシショーサンって』『知らない、けれどイメージはある』ジョバンニは、うっとりと目を細めて、オシショーサンの姿を幻の中に思い浮かべる。『オシショーサンは博識、質問すると丁寧な長文回答をくれる。ネットの文章は礼儀正しくて古風。忍者の血を引く老師みたいな人』『なぜそう思った』『名前、オシショーサン、“千葉の滝夜叉丸”』『なるほど……?』それはネットでの通り名であって、多分本名には掠ってもいないと思うのだが……だが、ジョバンニの勘違いは止まらない。『オシショーサンはきっと年上の方、ならばこちらも、礼儀を尽くした格好でお会いせねば』『そうか、まあ、頑張れよ』待ち合わせ場所は半蔵門駅改札口。駅名を見ただけで、もう、ジョバンニ大興奮。『ハンゾー! ハットリハンゾー! ニンジャキング!』だがすぐに、敬愛するオシショーサンにみっともない姿を見せるわけにはいかないと、キリッと表情を引き締め直す。『礼儀とワビサビ、ニホンのココロ』ボルサリーノをちょいと整えて辺りを見回せば、ちょうど改札を通る一人のご老人が。『マンマミーア! 想像した通り、オシショーサン、老師!』その老人は長い白髪を後ろでキュッと一つに結んで、顎にはこれまた真っ白な山羊髭をフッサアと生やした——ありていに言えばカンフー映画に出てくる“老師”みたいな風体をしている。実はジョバ
某日、霞ヶ浦警備保障の通常訓練でのこと。指導官がみんなの前に、とてつもなく顔のいい御曹司を連れてきた。「あー、彼は……とりあえずバイトで入った日立祐市くんだ。実際の業務に関わるというよりは、自己鍛錬のために来たらしくてな……」指導官は困惑顔だが、祐市は堂々としたもの。「日立祐市だ、財力でここにねじ込んでみた、よろしく頼む」居並ぶ霞ヶ浦警備保障通常警備員たちは、その全員が反応に困ってオロオロと身を揺らす。「あの、指導官、彼は……」「ああ、お坊ちゃんがちょっとハードなエクササイズ気分でやってきた、みたいなアレだな。だが安心しろ、彼には特別指導員をつけてある、君達の訓練に影響を及ぼすことはない……はずだ!」特別指導員としてやってきたのはあの男――爽介だ。彼は現役のエージェントであり、その肉体は無駄を一切削ぎ落とした形で鍛え上げられている。表情も凛々しく、立ち姿にも安定感がある彼は、犬で例えるならばシェパードといったところか。爽介の前で一丁前にピシッと姿勢を正して立つ祐市は、犬に例えるなら柴犬……「いいえ、あれは豆柴よね、みて、強さが一切感じ取れない……」「わかるわ、うちの実家の犬に似てる。本人だけは凛々しいつもりだけど、可愛さしかないあれよね」女性隊員たちの囁き声に気づかず、祐市はますます胸を張る。「俺は史緒里を守れるくらい強くなりたいんだ、ぜひ、厳しく、頼む」無理筋がすぎる。爽介は呆れて首を振った。「まあそれは、おいおいということで……まずは基礎訓練からな」しかしこの豆柴、魂は狼(のつもり)である。不服そうに鼻を鳴らして抗議する。「いや、実戦形式で頼む。俺は1日も早く、史緒里を救いに行きたいんだ」「うっわ、扱いずっら」ここで指導官が助け舟。「どの程度の“実戦”を組めばいいのか、まずは君の力を見極める必要がある、そのための基礎訓練だよ」「なるほど、一理ある」まずは腕立て伏せから。祐市は張り切って両手を大地につけた。「いーち!」「ふっ、余裕だな」「にーい!」「まだだ、まだいける!」「さーん!」「くっ、ここを……乗り越えれば……!」祐市の両腕はすでにプルプルと震えている。だが表情は凛々しく、キリッと前を向いて。イケメンゆえに、額にびっしり浮かんだ汗が流れ落ちるのが、まるでアクション映画の主人公であるかの
戦い済んで――戦士たちには平穏な日常が戻ってきた。VIP病室には茜色の夕日が差し込んでいる。清潔なベッドには、静かな寝息を立てる祐市。ベッドの傍らに立つ史緒里は、祐市の穏やかな寝顔に、そっと手を伸ばした。「祐市さん……」無事を祈って震える声。心配して泣き腫らした目元。まるで重症者に対する振る舞いだが、実際には祐市は“念のため”に受けさせられた精密検査で疲れて眠っているだけだ。そもそも鬼神もかくやという史緒里がそばについていながら、怪我などさせるわけがない。祐市は幸せそうに微笑んで、むにゃむにゃと寝言を言った。「史緒里、結婚式をやり直そう、君の存在を公に発表するんだ……」その破壊力に、史緒里がズシャァと膝から崩れ落ちる。「ああっ、祐市さん、こんな時まで恋愛小説のクズ男っぽいなんて! わかります、わかりますよ、とりあえず結婚式を約束すれば、女はおとなしく納得してくれると思い込んでいる傲慢御曹司系クズ男のセリフです、それ! しかも寝言で本音が漏れる王道演出! 神ですか、あなたはクズ男の神なんですか!」床の上で身をくねらせてしばし悶絶した後、史緒里はすっと立ち上がった。その表情には、すでに冷静さが戻ってきている。「でもね、祐市さん、クズ男の結婚の約束って、反故になるのがセオリーなんです。愛人の妨害にあったり、奥さんがクズさに見切りをつけて失踪したり……だからそのセリフ、フラグなんです」言ってることはこれっぽっちも冷静ではないが。史緒里は親指で祐市の唇に触れ、その形をなぞった。「だから、そのフラグ、回収しますね、お別れです」史緒里は親指をどけ、彼の形良い唇に自分の唇を重ねた。寝息を舐めるような、静かなキス。まるで時間が止まってしまったかのような、ただ静かな口付け。やがて、名残惜しそうにゆっくりと唇を離して、史緒里はさみしく笑った。「私、行きますね」祐市を守るため、五霞を潰しに――「どうか、普通の幸せを……」それは自分では彼に与えられないものだと、史緒里は知っている。なぜなら彼女が進む先は、いつだって“戦場”なのだから。くるりと背中を向けた彼女は、もう、振り返りはしなかった。それから2時間経って――VIP病室の清潔なベッドの上で目を覚ました祐市は、得体の知れない不安に脈打つ自分の胸を、強く押さえた。なぜだろう。と
その頃ヘリの中では、真理恵が厳しい顔で海を見下ろしていた。果てない大海原のど真ん中に寄る辺なく浮かんだ船は、周りの海水を巻き込んで大きな渦を作り出しながら海中に引きずり込まれてゆく。操縦士が叫ぶ。「真理恵さん、帰還しましょう、残念ですがこの状況ではもう……」「まだよ!」真理恵の横顔は青ざめているが、その瞳にはまだ諦めきれない希望の光が強く灯っていた。「しおちゃんがこの程度でやられるわけがないでしょ……」鬼心流の後継者として修行する史緒里の姿を長年見守ってきた彼女は知っている。装備も無しに山中でサバイバルさせられたり、酸素ボンベもなしに大海原に投げ出されたり、人体のポテンシャルを最大限まで引き出しさらなる高みを目指すその修行は、もはや“ほぼ人体改造”の域にある。あの修行を耐え抜いた彼女ならばワンチャンあるのではないかと。思ってはいるのだが……「なんでこんなに待機組がいるの!」上空にはヘリが7機。うち3機は史緒里の生還を信じる真理恵が待機させた霞ヶ浦警備保障のものである。さらに追加で飛んでいる3機の霞ヶ浦警備保障機は、貴理子が指揮を執る“空飛ぶ情報統制室”こと各種ソナーおよびデジタル機器を搭載した探索機。「この距離なら生体反応を直接観測できるでしょ! 少しでも反応があったら即データ化、私に送って!」「頼りがいあるけど邪魔ぁ! この狭い空域になんでこんなにヘリがいるの!」さらにもう一機は今回の協力団体であるヴィリオットファミリーのプライベート機。ハッチを大きく開けたキョースケは、痛ましく震える声で「フラテッロ……」と囁き、献花を海に投げた。その隣ではジョバンニが「ニンジャガール……」と、これも悲痛な表情で“心臓を捧げよポーズ”をとっている。「早い早い早い、諦めよすぎ! あとそっちのオタク、その敬礼はニンジャ関係ないから!」そして波間には爽介が凄腕テクで操縦する一隻の高速艇。海上にいくつも浮かぶ渦の間をすり抜けながら、拡声器で声を響かせる。「しおちゃん、お兄ちゃんが助けに来たぞ!」「危険海域を疾走しないで! あとお兄ちゃん設定、まだ引っ張るのやめて!」真理恵が果てしないツッコミに疲れ切ったその時、海上にポツリと黒い点が浮かび上がった。「しおちゃん! 早く、網を下ろしてあげて、早く!」それを合図に、7機のヘリが救助用の網
祐市を拘束して銃を突きつけることには成功した五霞だったが、精神的にはすでに疲弊し始めていた。なにしろこの男、銃を突きつけられているというのに一切怯えの色がない。それだけではなく、ペラペラと喋くって交渉を続けている始末だ。この状況なのに、命乞いでも説得でもなく、“交渉”を!「つまり、俺を殺し、日立の本家を乗っ取り、その資金で軍需産業の世界に参入したいと、そういうことだな」「そうだ、すでにコネクションも作ってある、あと必要なのは資金! 資金なんだよ!」「ならば事業計画書を提出してくれ、その内容次第では投資をしてやろう、正当な商取引というわけだ」「そんなまどろっこしいことしなくても、日立家の資産を自由に使える立場になれば、手っ取り早いだろ」「一理ある。しかし軍需産業への参入はリスクマネジメントの観点から、お勧めしない。クリーンな企業であるという我がグループのイメージが損なわれた場合、一般消費者の購買意欲や、既存の取引先との関係性の変化などの損失は計り知れない。かつ、新たなノウハウの取得やマニュアルの構築など、専門家を招聘する必要もある」「しゃらくせえ! ビジネスの話をしてるんじゃねえんだよ!」「そうか、では別の側面から話をしよう、実は俺、もうすぐ父親になるんだ」「な、なんの話だ?」「生まれてくる子が幸せであるように……そして世界中の子供達が幸せであるように……ラブ・アンド・ピース、戦争などという不幸の種に金を出したくはない」「立派ぁ! 理念は立派ぁ! だけど今の状況を理解して!」五霞の情緒はジェットコースター状態。上げられたり下げられたり、振り回されてもうぐちゃぐちゃ。「まずはステップワン、いまお前は人質なの! 俺はお前を餌に、あの恐ろしい女を誘き出してなぶり殺しにしようと思ってるの!」「なるほど、悪人だな」「いいね、ようやく俺が悪人だと気付いたのか。じゃあステップツー、俺はお前らを巻き添えにして自爆する覚悟、だから船を爆破した、もうすぐこの船は沈む、タイムリミットは……あと10分ってところかな」「いや、君はこの船と命運を共にする気はないはずだ、なぜなら、日立家の財産を手に入れても死んでしまったら使えないからな、だから脱出経路なり安全装置がどこかにあるはずだ」「無駄に鋭い推理! なんなの! 天才なの? バカなの? ほんとちょっと、
日立みやびは恋愛小説でよくみる、いわゆる”虐げられた妻”である。みやびの嫁ぎ先である日立家は由緒正しい大財閥であり、義母はそこに入り込んだ”庶民”である嫁を嫌い抜いている。気まぐれに嫁を呼びつけて雑用や宴の下働きを押し付けるなんて日常茶飯事、口を開けば嫌味ばかり、時には”家訓”と称して体罰を与えることもある。夫――日立祐市(ひたちゆういち)は祖母がどこかから拾ってきた”庶民の嫁”であるみやびを恥ずかしく思っている。当然結婚式などは挙げていないし、世間に結婚を公表することもない。「俺には初恋の女がいる」と言って憚らず、みやびのことを都合の良い家政婦であるかのように扱う、まさにお手本通